福沢諭吉(ふくざわゆきち)といえば一万円札の肖像でおなじみの人物で、明治時代の教育家・思想家です。 「天は人の上に人を造らず」で知られる「学問のすゝめ」という本を書いたことは有名ですよね。 実はそれだけでなく、現在の日本社会につながる様々な功績を残していて、有名な大学の創設者でもあります。 この記事では、福沢諭吉について解説します! 天才の略歴1835年(1歳) 中津藩下級武士の子として大阪に生まれる 1854年(19歳) 蘭学を学ぶため長崎へ 1855年(20歳) 適塾に入門 1857年(21歳) 適塾の塾頭になる 1858年(23歳) 江戸で蘭学塾を開く 1859年(24歳) 咸臨丸でアメリカへ行く 1861年(26歳) 結婚 1863年(27歳) ヨーロッパ使節団に参加 1863年(28歳) 私塾創設 1868年(33歳) 私塾を「慶應義塾」と改める 1872年(37歳) 学問のすゝめの初編を発刊 1882年(47歳) 新聞「時事新報」を発刊 1886年(51歳) 「婦人論」を執筆し、男女平等を訴える 1890年(55歳) 慶應義塾に大学を設置 1892年(57歳) 北里柴三郎を助け、伝染病研究所の設立に尽力する 1901年(66歳) 脳溢血のため死去 独学で英語を学ぶ福沢諭吉がまだ若い頃、幕末の日本で外国語といえばオランダ語でした。 19歳で蘭学を学ぶために長崎へ行くなど、福沢諭吉も長年オランダ語を学んでいます。 しかし、外国人居留地の横浜へ行ったとき、看板の文字がまったく読めないことや外国人に自分の言葉が通じないことに強い衝撃を受けました。 当時、世界の主流な言語といえば英語だったため、英語の必要性を痛感して辞書を元に独学で英語を学びました。 日本の近代化に取り組んだあまり知られていませんが、福沢諭吉は海外から優れた文化をたくさん日本に持ち帰り、学校や病院などの体系を改め、肉食などの食文化を定着させることにも貢献しています。 日本の国民食とまでいわれる「カレーライス」を広めたのも福沢諭吉であるといわれています。 福沢諭吉がいなければ、日本人はまだ和装をして瓦屋根の日本家屋に住んでいたかもしれません。 日本銀行そもそも、「中央銀行を置く」という概念を日本に伝えたのが福沢諭吉。西洋を視察したとき、まだ日本になかった中央銀行という概念を日本に紹介して日本銀行が誕生しました。 会社の経理で重要な複式簿記を日本に伝えたのも福沢諭吉で、「貸方」「借方」の読み方も翻訳しました。 日本初の生命保険加入者こちらも福沢諭吉が西洋を視察したとき、すでにヨーロッパで発達していた「生命保険」を日本に伝えています。 明治時代までの日本では、何か災難にあったときは親族間で支援し合うという風習でした。 教え子の阿部泰蔵が国内初の生命保険会社を立ち上げたとき、一番に加入したのも福沢諭吉でした。 福沢諭吉の教育思想とは?福沢諭吉といえば、「学問のすゝめ」。 当時の日本の人口は3000万人くらいでしたが、学問のすゝめは300万部売れたとか。 当時の日本人の10人に1人が読んだことになります。 実際にこの本を読んだことはなくても、名前を聞いたことがある方は多いと思います。 何が書かれているかというと、明治時代の「文明開化」で西洋化し、変わりゆく日本社会の中で国民の自立には学問が重要であるということ。 これが福沢諭吉の教育思想です。 「学問のすゝめ」の内容は慶応義塾大学の教育理念として受け継がれるなど、現代にも通用するものばかり。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」「学問のすゝめ」は人間の平等性について説いたものですが、「人は生まれながらに平等である」という意味ではありません。 誤解している方も多いかもしれませんね。 この一節には 「されども今廣く此人間世界を見渡すに かしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて 其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや。」 という続きがあり、学問を身につけた者はそうでない者に比べて、貴ばれ豊かになるという意味です。 福沢諭吉の言う学問とは知識や情報体系のことで、学歴のことではありません。 正しい知識を身に着けることで差別や偏見がなくなり、人として正しい判断や行動ができるということです。 「独立自尊」これは自他の尊厳を守り、自分の判断や責任で行動を起こすという意味です。 福沢諭吉は西洋文化にふれることで他人との平等性が大切であると感じ、日本人が学問をして一人一人が自立することが重要と考えました。 自分の価値観に自信を持ち、相手の価値観を許容する心の広さを持つこと。 また、経済的にも精神的にも他人依存しないこと、これが真に社会を豊かにすることであると説いています。 福沢諭吉がお札になったのは?福沢諭吉といえば一万円札。 肖像に選ばれた理由は財務省のホームページにあり、 最高券面額として、品格のある紙幣にふさわしい肖像であり、また、肖像の人物が一般的にも、国際的にも、知名度が高い明治以降の文化人の中から採用したものです。 と書かれています。 お札の肖像はだいたい20年くらいのスパンで変わっていますが、福沢諭吉だけは前回の変更のタイミングでも変わらず、1984年に採用されてからずっとそのままです。 しかし、その理由ははっきりしていません。 前回の変更では偽造防止対策が施されたことが大きな変更点でしたが、 特徴的なほくろがあることが偽造防止に役立っている 新札発行を短期間で行うため、発行枚数が多かった一万円札はそのままにした という説があります。 また、当時の財務大臣の塩川正十郎氏や小泉純一郎総理がともに慶應卒なので反対したという説もあります。 福沢諭吉、天才の理由まとめ下級武士の子として生まれ、子供の頃は貧しい暮らしだった福沢諭吉。 蘭学を学び、英語を学び、海外を視察して明治時代の日本を近代化し、西洋化に導いた功績があります。 「学問のすゝめ」という有名な著書を残し、学問=正しい知識や情報を身に着けることの重要性を説きました。 現代にも通じるこの天才的な考え方は福沢諭吉の優れた先見性や洞察力から生まれたものですが、貧しい生活でも不平不満を口にせず、学問を続けた努力の人であることも大きいでしょう。
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