銀座にモンペ姿の修学旅行生(毎日新聞社提供) 戦時中の女性の服装といえば「モンペ」のイメージがある。しかし、モンペはその当時でもすでに古臭く、ダサかった。多様なファッションを謳歌していた日本の女性たち。なのに、なぜモンペは国民服となったのか? 女性たちのファッションの変化から、戦争が「格差」を平準化していく様を描く。 (*井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』より「Ⅳ章 カリスマ待望と戦争」を4回に分けて特別公開) エプロンからモンペへ エプロン姿と洋装のあいだモンペ姿がためらいがちに銀座に現われたのは、日中全面戦争勃発から約一年が経った1938(昭和13)年7月4日のことだった。 『東京朝日新聞』が報じている。「銀座にもんぺ隊/息づまる雨の重圧が薄らいでホッと一息ついた形の四日夜の銀座へモンペ姿の少女の一群が突如現れて圧倒的に人目を惹いた、福島県大沼郡高田町大沼実業学校女子部二年生の修学旅行団四十名なのだが、何れも木綿棒縞の筒袖に木綿のモンペ、木綿の兵古(へこ)帯……/引率の坂内教諭に云わせると『これはこの学校十数年来の制服でして……』」。 戦時下にもかかわらず、モンペ姿が奇異の目でみられたのにはわけがあった。 第一に、戦時下の女性の服装にふさわしかったのは、モンペよりもエプロン(割烹着)だったからである。同日の紙面の左隣は、エプロンが象徴する国防婦人会・愛国婦人会の記事である。「買物は一人一品」の見出しの記事によれば、商工省からの要請を受けて、「全国一千万の両会員婦人を動員して国防資材の節約、買い物は一人一品主義の徹底を期すことになった」。 日中全面戦争の勃発は、エプロン姿の女性を社会の最前線に立たせた。たとえば国防婦人会は、1936(昭和11)年末、約367万人の会員数が翌年末には約685万人とほぼ倍増している。1938(昭和13)年末は約793万人に達した。「今や日本女性の決然起つべき秋(とき)が来た。国婦の使命はいよいよ重大となった」。 エプロン姿の女性たちは何をしていたのか。彼女たちは、出征軍人遺家族の調査発見、遺家族に対する「奉仕的世話」や慰問・弔問、出征兵士への「鼓舞激励」をしていた。「銃後国防と、軍人援護と家庭を確守する広義国防に火の出るような活躍」をするためにふさわしい女性の服装はエプロンだった。
他方でこの年の夏、銀座では流行のファッションに身を包んだ女性たちが闊歩していた。『ホーム・ライフ』8月号が銀座の「モダーン風俗」を伝えている。ある写真のキャプションは言う。「さすがに銀座街頭です。これだけ通る女性が、全部盛夏用の帽子をかぶっているのはうれしい限りです」。 銀座を闊歩する女性 『ホーム・ライフ』1938年8月号 この写真記事の特集「夏の婦人服と帽子とについて」、大阪大丸婦人子供帽子部の「西村東一郎氏」がコメントを寄せている。 「かなり洋服には思いきったのを着られるようになりましたが帽子はまだまだ平凡なものしか出ません。非常時でも帽子だけは原料は今まで日本で作られて輸出されているので外国品が来なくとも少しも影響はありません」。 この特集の写真をみるかぎり、日本が戦時下にあったことは想像しがたい。銀座は豊かさのなかにあった。 (责任编辑:) |